Z
30代、統合失調症です。先日、障害年金停止の通知を受け取りました。寝耳に水でしたが受け入れるつもりです。両親に頼って生活しているため、その負担が減るならと受給していましたが、生活自体に不自由のない状態での受給には罪悪感もありました。数年前なら、もっと不安になって考え込んでいたと思いますが、今は淡々と、不安を感じながらも、持ち物が減ってできた余白に、どんな新しい出会いがやってくるだろうと考えている自分がいます。このような変化を想像したことはなく、望んだこともありませんでした。だから、本当に驚いています。
それは、さまざまな試行錯誤をしつつも全部失敗して、初めて「こういう自分に慣れていくしかないんだ」と感じたときから始まりました。それは「降参」そのものでした。この病気を受け入れよう、抱えて生きていく覚悟を持とうとしてきた20数年、実は誰よりも病気であることを認められずに闘っていたのだと気づきました。
発症したとき、自分は完全な異物になったと感じました。今もその感覚は残っています。これは死ぬまで持つのでしょうが、以前ほど気にならなくなっています。そこにあるものは、なにをしてもしなくても、そこにあるから。それに、誰一人同じ人も同じ人生もない、ということも、理屈でなく解ってきました。私は、「私にとっての普通」を生きればいい…言うは易しで、お手本も先達も正解もない道は、とても怖いし心細いです。しかし、誰もが「未来はわからない」今を生きているなら、病気になったことも含めて、思いがけないことがいくつも起こって、今ここにいるのなら、これからも、思いもしない辛いことが起こる可能性と同じくらい、うれしいことが起こる可能性も、あるのが自然ではないかと思えます。
「変化だけが唯一の普遍」…変わらないものを、変えようとしなくなると、なにかが変わるみたいです。今死ぬなら、生きていることは、とても不思議で、怖いだけのものじゃなかったと知って死ねます。それがうれしいです。今この瞬間を大切に、震える自分をごまかさず、一歩ずつでも寄り添いながら生きたいです。いい歳をして、社会的な結果をなにひとつ出せないことが恥ずかしく情けなく、いたたまれなくなる気持ちは絶えませんが、それは自分に自覚できる一部の、さらに一部分に過ぎないと感じるようになってきた今、これが私にとっての寛解へのプロセスなのかもしれないと感じています。