こころの元気+ 2014年9月号(91号)連載 おこまりですか?では他の人に聞いてみましょう! より
自分らしくあること
Q
私は統合失調症歴13年目の女性です。
現在働いていて、今の職場は勤続10年目です。
勤め始めた頃は、自分のことで一杯一杯でしたが、徐々に仕事に慣れ、まわりの人たちのことも見えてきて、少し前までまわりの人ともっと調和しようとして、ちょっと無理して声かけしたりしていました。
今はあまり無理をせず、自然体で気を配れたらいいなと思っています。
ですが「自分らしくある」ことと「気を配れるようになる」ことのバランスがむずかしいと感じています。
病気であっても、病気でなくても、あるいは相手が病気であることを知っていても、知らなくても、「自分らしく他者と関われる」ことは、人が生きていくうえで、とても大事なことと考えています。
まわりの人たちが、私が統合失調症であることを知っていても、いなくても、同じように「自分らしさ」を出せたらいいと思っています。
皆さんは、職場に限らず、集団の中でどのように「自分らしさ」を出しているのでしょうか?
A 観察して試してみる/くまさん(千葉県)
病気かどうかにかかわらず「自分らしさ」の問題はむずかしいですね。
私自身、病気を患う前から考え続けてきたことでもあります。
というのは、小さい頃いじめにあって「自分らしさを出すこと」と「相手やその場の空気に配慮すること」のバランスがわからくなった経験があるのです。
私の場合は、「自分を出してもいい空気なのか」「まわりや相手の空気に合わせて自分を出さないほうがいいのか」という感覚がよくわかっていなくて自分の気持ちを出し過ぎてしまっていたように思います。
そうすると、その集団の暗黙のルールを破ったことになります。
その集団や相手は、「自分とは違う性格の人ともうまくやっていく必要がある」という考えの人が多いのか、あるいは「異分子は許さない」という考えの人が多いのか、それがわかっていないと最悪な場合はいじめにあってしまいます。
私の場合は、しばらくは聞き役に徹して、相手やその集団がどんな傾向なのか観察します。
無難な話から、だんだんに個人的な意見や気持ちを出していきます。
相手やまわりがつまらなそうに黙ったりしていたら
「あ、すみません。自分ばかり話してしまって」
とフォローして、家に帰ってから検討してみます。
ついていけない内容だったのか、話した相手や場所や時間が悪かったのか、あるいは聞くことに徹したほうがよかったのか。
そういうことをいろいろ試して修正し続けて、少しずつ、どのくらい自分を出していいか調節しています。
A ありのままで/伊藤知之さん(北海道)
自分らしい自分になろうとしてご苦労されているのですね。
私は「浦河べてるの家」で活動をしていますが、仕事中に時々失敗をしたり、ピントの合わないことを言ったりすることもあります。
でも、そのときにはまわりの仲間やスタッフは、時々あきれながらも笑ってくれます。
私は、特に周囲の人を笑わせようとかいじってやろうという気はないのに、皆のいる所はいつも笑いで包まれます。こういうことを「ありのまま」というのでしょうか。
ありのままというのは、自然体で日々を生きるということで、努力をしてそういう状態になれるものではないと私は考えます。
私もまわりに気を配ることもありますが、時々注意が行き届かなくて仕事などがうまくいかないことがあります。
でも、それでいいのではないかと思います。
無理して背伸びをしてみようと思わないことが、ありのままの自分になる第一歩だと思います。
私は、いろいろなことがまわりで起こるとあわててしまい、パニックになって時々ユニークな動きをしたり、大声をあげてしまうこともあります。
そういう私を、今ではそのまま「べてる」では出しています。
10年ほど前のべてるまつりの幻覚妄想大会で、私は「ありのまま賞」を受賞しましたが、このありのままの自分が受け入れられているからではと思います。
あなたも充分あなたらしいと思うので、これからも気を張らずに生きていってください。
A 自分らしさは変わるもの/小松達也さん(千葉県)
統合失調症歴10年の者です。
質問を読んで、真っ先に中学生の頃につくった詩を思い出しました。
「陰」
誰の前でも同じ人でいる
かんたんそうでむずかしい
そんなことって多いよな。
この詩にはある人を反面教師とし、反感をこめて書きなぐった記憶があります。
そして今、「誰と対するときにでもいつも変わらぬ『自分らしさ』があるだろうか」と思い巡らせてみました。
なんとっ! すぐに「ない」という結論になりました。
ご質問の「自分らしさ」が、姿形・行動や言動に現れるものであるのなら、なおさらです。
心の動きであったとしても「ない」ですが…。
中学生の私は、人間はいろいろな面を持っていることに気づかずに、ある1つの面でのみ見ていたのだと思います。
また、複数の見方をともに持つこともできずに、どちらかの偏った見方しかなかったのだと思います。
これは「人のあり方」についての問題だと思います。
悩まずに結論を出せたのは、人は「場」で生きていて、「自分らしさ」はその場限りだと前から思っていたからです。
今では自分のことを「日和見(ひよりみ)的心」の持ち主であり、その実践者であると思っているので、その場の風まかせにゆ~らりゆらりとしています。
ゆられているうちに「私らしさ」を周囲の人が決めてくれればいいかとも思いますし…。
A 小さなお礼の積み重ね/リアさん(高知県)
私は統合失調症になり20年経つ、病気を隠し一般就労している40歳女性です。
「自分らしさを出す!」
これは大切なことだと私も思います。
職場は働く場所なので、時には自分を出すどころか我慢しなければならない面も多々ありますものね!
私は介護の仕事をしていますが、利用者様に朝の水分を出すときに、コーヒーを入れている職員に(ついでだからですよ)、「私にも入れて~」とコップを持っていきます。
人に簡単なことを頼まれていやがる人はそういません。
皆笑顔で、ついでに入れてくれます。
入れてくれたコーヒーはすぐ一口飲み「ありがとう。やっぱり甘くておいしいわ」と感想を言います。
おべんちゃらを言う必要はないんです。
これで朝のスタートもいいし、入れてくれた人も悪い気はしてないと思います。
あと、フォローしてくれた人には必ずお礼を言います。
あたりまえのことかもしれませんが(いつもしてくれてるし言わなくてもいいだろう?)ではなく、言葉にすることによって「まあ、のせじょうずなんだから」と言いながら皆うれしそうな顔をしています。
小さなことでも、自分はフォローに気づき、感謝しているということを見せるようにしてます。
私も就労したての頃は一杯一杯だったけど、やはり慣れていき、パートから社員に。
そして資格取得でき、今はちょうど中堅になり、新人さんを指導したり意見も言ったりする立場になりつつあります。
小さなお礼などの積み重ねのおかげで、職員とも仕事仲間を通り越して、友達づきあいをさせてもらってます。
プライベートでも人の話は最後まで聞き、しかしやはり素直に。人に愛され大事に想われ、また、自分も人を理解しようとし大事に思う!
これであまり損することはないと思います。
A ネガティブシールははがさない/まおさん(大阪府)
私も職場で「こういうふうにふるまったらいいのだろうか」「これでよかったのだろうか」「ああいうことはまずかったのだろうか」とネガティブに反芻(はんすう)して忸怩(じくじ)たる思いを持つことがあります。
しかしよく考えれば、仕事は自分を構成する一部であり、全部ではないのです。
職場に行って働くときも、日によってコンディションも異なり、やってやった感や、今日はこれでよかったと思えるような内容のよい日ばかりでもないし、内容のよくない日もよくないなりに過ごして、一日終わったら息抜きをします。
内容のよくない日には、頭に張りついた「これでよかったのか」というネガティブなシールをどうしてもはがせない日もあります。
でも、そういう日は無理してそういうシールをはがそうとしないことです。
張りついたまんま「これでいいのかな」とやんわり思っているうちに、多少気にならなくなるように頭はどうもできているようです。
心の病をもっていると、それが急性期症状の引き金になるんじゃないかとびくびくはしますが、実際多少状態が悪くとも、悪いまんま過ごすと時が過ぎて多少は必ずマシになるんです。
そう思ううちに病気もきっと寛解します。あせらないことですよ。そう思います。