「こころの元気+」2007年9月号より
自分の人生を生きるために、一歩を踏み出す勇気
宇田川健/日米精神障害者交流事業代表
失敗を人にすすめてよいのか
失敗してもいいじゃないかと人にすすめることは、無責任なことじゃないかと思いました。
失敗とは僕にとって、再発だからです。
再発を人にすすめるのはよいのか、悪いのかは結論が出ませんでした。
この原稿を書くにあたって、僕が参加しているセルフヘルプグループの「とにかく話そう会」のピアカウンセリングのセッションで、悩みをそのままを話しました。
おかげでこの記事が書けました
。僕が一人で書くのではなく、とにかく話そう会のメンバー全員が後押ししてくれました。
みんな、本当にありがとう。
感謝しています。
責任は自分しかとれない
僕はしばしば再発します。
そして長く休みます。
再発すれば、半年とか一年を棒に振ることもあります。
そんな僕が失敗をおそれるな、前に進め、と言ってしまってよいのでしょうか。
三歩進んで二歩さがるなんて、都合のいいことがあるわけありません。
一歩進んだら五歩も六歩もさがることがあります。
それどころか転んでしまって立ち上がれないこともあります。
自分で決めて、自分で動き始める。それは何か大きなことであり、リカバリーに必要なことです。
というより、リカバリーそのものです。
しかし小さなことでもあり日常のことでもあるのです。
自分で責任をとるならば、再発することは「あり」でしょうか。
僕の生き方では「あり」です。
人生の大きな出来事が目の前にあるとき、再発することをおそれて、病気がよくなるまで、その出来事を延期することは損です。
まわりの人は、そんなこと今できるわけないじゃないかと言います。
「もっと回復が進んでからやり始めましょう」とか、「就職するなんて…。家のこともできないのに!」、とか言います。
そしてこちら側としても、それを受け入れることはとても納得がいくことです。
くやしいですが。
病気がよくなってから、望みをかなえようと思って、物事を先のばしにすると、10年待っても20年待ってもその時期は来ません。
今それをやることは困難が多く、とても成功しないように思います。
でも「やる」、「やらない」を人に任せることは、やめましょう。
「あなたにはそれができる」とか「あなたにはできない」とかは、他人に決めてもらうことではないのです。
自分がやると決めるのか、やらないと決めるのかだけです。
自分で決めて自分で動き、責任を自分でとりましょう。
人生の責任をとれるのは、自分だけです。
あなたの人生を他の人はだれも生きることはできないのです。
そして「やらない」という選択をすることも自分で決めたならば、勇気あることです。
自分で決めてそれで再発して、1,2年棒に振ったところで、よいのです。
自分で決めるということはそれだけの価値のあることなのです。
今日一日をどう過ごすか、が積み重なって、死ぬときに「僕の人生は価値あるものだった」と言えるか言えないかが決まるのです。
僕は15年前は自転車に乗ることができませんでした。
薬が多くて、眼球が上がってしまう副作用があったのです。
家から外に出ることができませんでした。
怖かったのです。
実際に自転車に乗って眼球が上がってしまうことがありました。
その状態で、自転車を押して歩くうちに道に迷い、帰れなくなりました。
眼球が上がると強い不安が始まり、二時間ぐらい、原因のない、意味のわからない恐怖のなかで苦しみました。
そして、家で寝ているだけの時期がありました。
自分が変わるきっかけは、ちょうど10年前にロサンゼルスに行ったことが大きいです。
1997年にロサンゼルス精神保健協会と、埼玉のやどかりの里が催した精神障害者本人の交換プログラムに参加しました。
デイケアの掲示板に交換プログラム参加者募集のチラシが貼ってありました。
NHKラジオの英会話を聞くのが趣味だったので、英語の力を試せるかもしれないと思い、問い合わせるつもりだけで、やどかりの里に電話をしました。
そこで、「参加の希望ということでよろしいでしょうか」という問いかけに思わず「あ、はい。まあ希望としてはそうです」と答えてしまいました。
とんとんとんと、話は進み、その2,3年前には家から出られなかった僕は気がついたらロサンゼルスに行ってしまったのです。
盛りだくさんの10日間でした。
日本に帰ってくると、とても興奮して、家族に話をしていました。
それ自体が再発でした。
興奮していた時期が終わるとうつ状態になりました。
半年間デイケアに参加できませんでした。
「自分のせいで失敗して、寝込んでるなんて、ダメじゃん」と人から言われたくなかったので、根性で通いました。
自分のせいで再発したのはわかっていました。
人からそれを非難されたくないという思いは、そのまま自分に向けられました。
自己嫌悪のかたまりでした。
自分のせいでこうむった、やっかいな再発はとてもいやでした。
そういういやな思いがあっても、何かが変わったのです。
今になって言えるのですが、僕は学びました。
巻き込まれることで、人生が変わる。失敗したことで、僕は世界が変わったのです。
価値のある再発
その後、全国精神障害者団体連合会(全精連)でボランティアをしないかといわれました。
そのとき思いました。「また巻き込まれちゃおう」
その後の人生は、巻き込まれることの連続でした。
巻き込まれて、再発する。
再発して休む。
休んで自己嫌悪におちいる。
でも、休んでいることがそのうち自己嫌悪よりも「あれだけやったんだから、休んでいていいや」と思えるようになりました。
そのうちに何かにチャレンジするときにはあらかじめ再発を想定するようになりました。
再発することには慣れました。
でも再発している間に自己嫌悪におちいるのはいつまでたっても慣れません。
チャレンジする自分は好きです。
そのたびに再発するのはきらいです。
それは僕にとっては失敗です。
ところが、まわりの反応は違いました。
このテーマをもらったときに、雑誌の編集責任者の丹羽さんや、事務局長の桶谷さんに「失敗って何ですか。僕の失敗って、再発のことなんですけど」と相談したところ、言われたのです。
「宇田川さんは再発が失敗だと言うけれど、こちらとしては、はじめから再発を予定に入れているんだよ。宇田川さんが海外に行くたびにこっちはもう、帰ってきた後にどれくらい休むかは予定に入っているので、それは失敗とはいわないんじゃないの?」
僕はそれを聞いてびっくりしました。
そういえば、僕も再発と休養は計算の内に入っているなあ、と思いました。
自分で決めたことを、自分で決行します。
そして、多くのチャレンジの後にはたびたび再発と休養があります。
よく再発すると、再発の前の70%までしか回復しないといいます。
でもその70%を精一杯生きられるようになるなら、再発してもそれは価値ある再発であったのではないでしょうか。
目が開く、世界が変わる、そういうことが、リカバリーなのです。
まずは動いてみよう
僕たちは人生の出来事の前に怖いと思う、他人から止められることは、よくあります。
それだけの能力がないと言われます。
親からの自立・金銭的な自立・就労・恋愛・結婚・人と友達になれること、僕は何もかなわない望みだと思っていました。
でもすべてできてしまいました。
そんななかでも休んでいるときに自己嫌悪におちいる自分は変わらないのです。
自分で決めて自分で失敗して、それ自体が人生でした。僕は人生の成功者ではありませんが、自分の人生を生きています。
考えても考えても前もって答えが見つかるわけがありません。
当事者のみなさん、家族のみなさん、専門家のみなさん、できる、できないは動いてみないとわかりません。
リスクを認めた上で、動くことが必要です。
結果をあれこれ考えるより、まず動いてみませんか。
順番は、「巻き込まれてみる。結果が出る。それから考える」です。
失敗はさけられないこともある。しかし価値はあるのです。