特集3
無理して生きている(197号)
筆者:川村有紀(宮城県)
発病した頃
「無理しないでね」
「がんばらなくてもいいんだよ」
精神疾患を発病した20代の頃、支援者によく言われた無力を感じさせられる言葉でした。
これまで一生懸命やってきた学校生活や勉強をすべて否定されたような、そして、「病の前のようにはもうがんばれないんだよ」と言われたような呪いの言葉でした。
わからなくなって
30代になり、発病したての頃よりは体力もついて、「がんばらなきゃ」という気持ちに体力がついてきて、取り組めることが増えました。
でも、いろいろなことに挑戦できたのはよかったのですが、思いのほか忙しくなってしまい、
「私がやりたかったことってこういうことなんだろうか?」と思うようになりました。
忙しくなりすぎると、自分が何をやりたくて何をやりたくないのか、何が心地よくて何が心地よくないのか、何を求めていて何を求めていないのか、わからなくなってしまいました。
無理に気づいた
そのうち、この地上にいることが、生きて呼吸をしていることが苦しくなってきて、完全に靄(もや)に包まれたような感覚になりました。
そのとき「あぁ、今の生き方は自分にとって無理なんだ」と思いました。
祖母の言葉
そのとき浮かんだのは3年前に亡くなった大好きな祖母の、
「人はね、ほどほどがいいの。自分達が食べていけて、楽しいこともできるようなくらいの仕事ができればいいの」
という言葉でした。
祖母は生前、やさしくおだやかで、人から頼りにされ愛される、でも自分の芯がしっかりとした人でした。
その言葉を聞くと、やりたいかやりたくないかもわからないことに追われている自分にハッとさせられて、涙があふれてきそうになるのでした。
それまでは、自分が無理をしているということにも気づかないような生き方でした。
仕事だけでなく人間関係にしてもそうでした。
そういう無理のある生き方に気がついても、簡単に治らないのが「無理癖」なんだと思います。
自分にも他の人にも
「がんばっていない自分、成果が出せていない自分は価値がない」
という思いこみは自分に対して向けられたものですが、同時に他の人に対して向けられているものでもあります。
自分の期待どおりにならないとわかると、昔、支援者から言われてあれだけ嫌な思いをしたあの言葉
(「無理しないでね」「がんばらなくてもいいんだよ」)を相手にかけ、相手を無力にさせる、そして自分に対する負荷が重くなる…。
仕事だけでなく、まわりのあらゆる人間関係において、そういう無理が「自分」というキャラクターを作ってきました。
「苦しい生き方」とわかっていても、そういう生き方をやめるということは、自分を見失うことかもしれない大変恐ろしいものです。
変えていきたい
40歳を前にして、祖母の生き方と言葉が身に染みるようになりました。
他の人も大切にするけれど、自分も大切にする生き方に少しずつ変えていきたいと思うようになりました。
「自分を大切にする」という感覚がとぼしく、どんなことが自分を大切にしていることかもわからないのですが、とりあえず最近は、「思いのままに過ごす時間を作る」ということを心がけています。
昼間から寝てもいいし、好きな料理をしてもいいし、1人で映画を見て号泣してもいいし、たまたま気乗りしていたら仕事をしてもいいし…。
生き方をシフトチェンジするということは、苦しいと感じることが多いです。
今のところ「無理な日常+α(プラスアルファ)」ということになるので、時間的な大変さがあるときもありますが、
「こういう過ごし方をしてよかった」と思える時間を過ごすことが、今の私には大切かな、と思っています。