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役に立っていない、意味がないと思ったら
特集6 ちょっとおおげさにおだて合う
自己肯定感がぐぐっとアップ
筆者:香山リカ
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プロフィール(精神科医・立教大学現代心理学部映像身体学科教授)
1960年7月1日北海道札幌市生まれ。東京医科大学卒。学生時代より雑誌等に寄稿。その後も臨床経験を生かして、新聞、雑誌で社会批評、文化批評、書評なども手がけ、現代人の“心の病”について洞察を続けている。専門は精神病理学だが、テレビゲームなどのサブカルチャーにも関心を持つ。(2010年1月現在)
ある診察室で
診察室で症状のつらさ、しんどさを語った後、当事者の皆さんがよくこう口にすることがあります。
「私なんて生きていないほうがいいのかもしれませんね」
「誰の役にも立たないこの人生、意味なんてゼロですよ」
もちろん、「生きていないほうがいい人」、「意味がゼロの人生」なんて、それ自体がありえません。
だから私は即、
「何を言ってるんですか、そんなことありませんよ!」
と否定つつも、
「そもそもどうして、そんなこと考えちゃったのですか」
などと質問して、その人がそこまで自信や自尊心、最近の心理学の言葉でいえば「自己肯定感」や「自己効用感情」を失ってしまったのか、と分析しようとします。
するとこの「役に立っていない、意味がない」という気持ち ― ここでは「自己肯定感の欠如」と呼ぶことにしましょう ―は、どうやら大きく二つに分けられることがわかってきます。
具体的な理由のある自己肯定感の欠如
まず、何か具体的な理由があって感じる自己肯定感の欠如。
たとえば、ユミリさんは看護師として救急病棟で忙しく働いていましたが、統合失調症を発症して半年間、休職しなければならなくなりました。
ユミリさんを苦しめていた幻聴・被害妄想はほとんどなくなったのですが、なんとなく頭の回転が前より鈍くなったような気がします。
主治医や病院の看護師長からも、
「復職は、なるべく落ち着いて仕事ができる部門からスタートして」
と言われ、リハビリ病棟立ち上げのための準備委員会に配属されました。
準備委員会といっても、ユミリさんの日常の仕事は渡された資料を読んで、簡単なレポートにまとめること。
これまでの忙しい救急外来の仕事に比べると、ほとんど何もしていないに等しいように思われました。
看護師長に、
「これじゃ申し訳ないので」
と申し出ても、
「いいのよ、ゆっくりマイペースでやってくれれば」
と笑顔で言われるばかり。
とはいえ、「もう大丈夫ですから外来や病棟にもどしてください」と言い張るだけの自信もありません。
職場の配慮をありがたく感じながらも、
「私ってこの病院の役に立ってないんじゃないかな …」
と、どんどん肩身が狭くなるユミリさんでした。
このユミリさんのケースでは、自己肯定感の欠如には、「これまでのように仕事ができない、やらせてもらえない」という具体的な理由があります。
看護師長を始め誰もユミリさんを非難はしていないのだから、ちょっと考え過ぎの部分もないわけではないのですが、
「確かにこういう状態になれば、私も自信がなくなるかも」
と誰にでも想像できるでしょう。
自分を責め過ぎない
こういう場合、まず大事なのは、「自分を責め過ぎないこと」です。
病気をすれば、いくら症状が落ち着いても、すぐには病前の状態にもどらないのはあたりまえ。
サッカーのJリーグの選手だって、骨折や靱帯損傷のケガをすれば、手術をして退院した後に長いリハビリの期間を要します。
試合に復帰したあとも、すぐに前のようにガンガン活躍できるわけではなく、まずは試合の雰囲気になれるのもひと苦労。
こういうときに、スポーツ選手たちがよく口にする言葉に、
「自分を信じて」というのがあります。
私たちもここから学ぶべきでしょう。
「ケガなんかしちゃって」と自分を責めても、決して回復が早まるわけではありません。
「きっとまた自分らしく活躍できる」と信じて、あせらずにまわりの好意に甘えるべきときには甘えつつ、少しずつカムバックすることが大切なのです。
ユミリさんの場合も、
「今は資料集めをしながらエネルギーを貯めるのが私の仕事なんだ」
と言い聞かせ、自分に「私はダメ、ダメ …」と呪文をかけることがないようにする。
これが一番必要なのです。
はっきりした理由のない自己肯定感の欠如
ところが、ユミリさんのようにはっきりとした理由がないのに、「とにかく私は役に立たない、意味がない」と思い込んでしまうこともあります。
大学生のアキオくんがそうでした。
大学に行けない時期が続き、受診した精神科で、
「初期の統合失調症。薬ですぐ治ります」
と言われたアキオくんは、確かにすぐに大学の授業にも行けるようになったのですが、教室にいてもすぐに「このなかで自分が一番ダメ」という気持ちにとらわれ、落ち着かない気分になります。
家族にそう話すと、
「大学にも行けるようになったんだし、もっと自信を持ちなさい」
と言われましたが、それでも自信はどんどんなくなる一方。
おそらくアキオくんの場合は、まだ病気そのものが完全に落ち着いておらず、症状の一つとして「自分はダメ」という思い込みにとらわれてしまっているのだと思います。
主治医に打ち明ける、自分を知る
こういう場合は、いくら「自分を信じよう」と思ってもうまくいかないでしょう。
そのときに大切なのは、まずは主治医に率直に「どうしても自分はダメだ、生きていても意味がない、と思ってしまうのです」と打ち明けること。
「病気が悪くなったと思われたらどうしよう」といったためらいはいりません。
おそらく主治医は、「なるほど、それはね」とこの自己肯定感の欠如が病気のプロセスのなかでときどき出てくること、それも治療によって取り除くことができることを説明してくれるでしょう。
そして、もう一つ。
自分でも、「ああ、また出てきた。これってホントのことじゃなくて、症状なんだよね」と知ることが大切です。
「ああ、もうダメだ。自分なんて世界の誰からも必要とされていない」という考えが頭に浮かんだら、そんな自分をちょっと離れたところから、
「おお、やってるやってる! また自己肯定感の欠如が暴れ出した!」
と他人ごとのようにながめてみてはどうでしょう。
そうやって見ることができるようになるだけで、「もうダメ、ダメ …」というとらわれから、ふと抜け出すこともできるものです。
どうでしょう、もしあなたの近くにユミリさんやアキオくんがいて、「どうせ私なんて」と口にしたとしたら、あなたは何て答えるでしょう。
「そうだね、キミは必要ないね」なんて言うでしょうか?
きっと、「なに言ってるの、そんなの考えすぎだよ!」
「あなたは私たちにとって大切な人なのに」
と必死に伝えようとするのではないでしょうか。
そして、それは決して気休めではなく、心から
「役に立たない、必要ないだなんて、そんなことあるわけない」
と思っているからだと思います。
もっとお互いをほめ合う
それなのに、自分のことになると、人はなぜか、
「まわりから必要ない、と思われているのは間違いない」
「私なんかいないほうがいい、これは思い込みじゃなくて真実なんだ」
と思ってしまう。
これもまた人間の性質の一つですが、そういうときにはちょっと心のなかのカメラを切り替えて、
「あなたも必要、だから私だって必要な人間のはず」
と思ってみるようにしたほうがいいでしょう。
そして、一人で「私は役に立たない」という思いにとらわれる人が出るのを防ぐためにも、日ごろから私たちはもっとお互いにほめあったり、相手のいいところをきちんと口に出したりすべきではないでしょうか。
「ありがとう、助かったよ!」
「ああ、あなたがいてくれたおかげでうまくできた。本当に感謝してるよ」
口に出すのはなかなかむずかしいかもしれませんが、ちょっと大げさにおだて合うというこの作戦、ぜひ実践してみてください。
言うほうも言われるほうも、目減りしていた自己肯定感がぐぐっとアップするはずですよ。