こころの元気+ 2011年9月号特集より
特集2
消えたい気持ちが消えるとき
自分と他人も同じ「わたし」
新潟県
D.Bさん
小学生の頃から、社会人になるまで「消えてしまいたい」というより、自分を「消してしまいたい」という気持ちがありました。
「死にたい」と違う点は、自分の存在した事実そのものを過去にさかのぼって抹消したい、という気持ちがあったことです。自意識が強く、自分が言った一言一言が、ずっと後まで、恥ずかしいというか、取り消したいというか、そんな風に思えて仕方がなく、人と接するのが苦痛でした。そのくせ、さみしくて仕方がなかったのです。
そんな自分をもてあまして、小さく小さく縮こまって過ごすうち、生まれた町にいて空気を吸っているだけで、苦しくなりました。
できるだけ遠くへ行きたいと、受験のとき北海道の短大を選びました。大学時代も孤独でしたが、消えたい気持ちは少しやわらぎました。
社会人になり、フリーターになりました。新聞の集金にまわったりして、人に自分から接していかなければいけない仕事をしばらくして、自信がついたりしたのがよかったようです。
その後、発病しても、消えたいとは思わなかったです。ただ、死にたくなったことはありました。でも、「自分の過去を消したい」とまでは思わなくなっていました。いつの間にそんな風になったのか、不思議です。
私には、不思議なことを考える癖があって、きっと、自分と他人とで、中に入っている「わたし」というものが、同じなんじゃないか。どんな形のコップに入っていても、何を混ぜ込んでいても、やっぱり水は水であるように、などと考えたりします。
だから、自分が失敗しても、失言しても、他の人だって、もし、ここにいる私の体に宿っていたら、私と同じ失敗をするだろう。だから、許してもらおう、と思うようになりました。
何があっても私は私
東京都
香菜世さん
消えてしまいたいという気持ちは唐突にやってきては、すーっと溶けてなくなって空気にでもなってしまいたいような、自分を責めて殺してしまいたいような、そんな感じの気持ちです。
今回の原稿を書くにあたって、「そういえば最近、消えてしまいたいと思わないなぁ」と気つきました。
それはなぜかと分析してみた結果、
「何があっても、私は私」
「誰が何をできても、私は私のペースで」
「誰かに何かを責められたって、責められても私は私だから、その人に私を否定する権利なんかない、だから私は私として堂々と生きる」
そういう、自分を大切に思う気持ちが芽生えてきたからだと思いました。
自分を大切にしてこなかった私。自傷でボロボロになった左腕や、大量服薬での四回の自殺未遂。「自殺騒動は両親へのあてつけか?」とそう聞かれたとき、はっきりと「違う」と反論できなかった自分が一年前にはいました。
そのとき、ふと思いました。なぜあてつけで自分の命を投げ出す? きらいならば、その人のために自分という大切な存在を投げ出す必要なんてないだろう、と(実際は大好きな両親ですが、カッとなってきらってしまった頃があります)。
そうして騒動が終わって、私のなかでは一つの決意がめざめました。何があっても、自傷や自殺はしない。それは自分を大切にしたいという自己愛の目覚めでした。そのまま生活を続けて一年。消えてしまいたいという気持ちも、きれいさっぱり空っぽになってなくなってしまっています。
消えてしまいたい気持ちが芽生えるのは唐突だった。だからこそ、消えてなくなるのも唐突だったのかもしれません。