新連載
脳は運動を求めている(198号)
筆者:陳冲
(山口大学大学院医学系研究科 高次脳機能病態学講座 助教)
第1回 私と運動
POINT
●運動は、健康づくりに必要な三要素の一つです。
●運動して体力をつけることで、脳機能も向上します。
●運動には抗うつ効果があります。
私は、医学部の出身にもかかわらず、運動と脳機能が関係することをまったく知りませんでした。
中学生の頃から卓球をやってきましたが、ただただ楽しくやってきただけで、運動そのものに対して特別な思いを持つことはありませんでした。
▼三要素との出会い
北海道大学大学院に入学し、当時教育学研究院の教授で循環器内科医の河口明人先生のご指導を1年間受けました。
河口先生は300人以上の中高年を対象とした「札幌ライフスタイルスタディ」を実施しており、1年間の運動習慣や栄養指導によって生活習慣病に関わる健康指標が改善したことを報告していました。
河口先生の他、体力科学を専門とする水野眞佐夫教授や温泉医学を専門とする大塚吉則教授も当時在籍されており、彼らのゼミに参加することが、私の健康づくりに必要な三要素と呼ばれる「運動」・「栄養」・「休養」との出会いの始まりです。
▼運動と脳機能の論文
水野先生のゼミで発表することがきっかけで、運動と脳機能について調べることになり、そこで見つけた研究論文が私の人生を変えることになったのです。
■運動と学力の関連
その一本目の論文は、米国イリノイ大学運動生理学者のチャールズ・ヒルマン博士チームによる2007年の研究報告です。
彼らは小学生を対象に20メートルシャトルランという体力テストを実施し、体力が高いほど学校での数学や読解力の成績がよいことを明らかにしました。
体力は遺伝とも関連しますが、定期的な運動が体力を向上させるため、この結果は運動と数学や読解の学力向上との間に関連性がある可能性を示しています。
■うつ病と運動療法
そして二本目の論文は、米国デューク大学心理学者のジェイムス・ブルメンソール博士チームによる1999年の研究報告です。
この研究では、50歳以上のうつ病患者を対象に、運動療法の治療効果を確認しました。
うつ症状の改善は、抗うつ薬を使用する群に比べてやや遅かったものの、約4か月の継続実施により、運動療法群は抗うつ薬を使用する群と同程度の治療効果が得られることが示されました。
なお、この運動療法では、運動トレーナーの指導のもと、ややきつめのウォーキングやジョギングを週3回、1回30分行いました。
▼運動効果のメカニズム
誰でもどこでもできる運動が脳をよくする、さらに認知と気分の両方をよくすることを知り、とてもワクワクしました。
そして「運動はなぜ認知や気分を向上させる効果があるのだろう? その神経科学的なメカニズムを解明したい」と思いました。
その後、北海道大学精神科の久住一郎教授と中川伸准教授のご指導のもと、博士論文のテーマとして、運動による抗うつ作用の神経科学的機序について研究しました。
■ドーパミンの関与
走ることを好むラットを、ランニングホイールのついた飼育ケージで3週間自由に走らせました。
その後、やや強いストレスを与えた場合でも、ランニングホイールのついていないケージで飼育されたラットと比べてあきらめにくい傾向がみられました。
この行動パターンは、あらかじめ抗うつ薬を投与したラットと同じです。
そして、ラットの脳から神経伝達物質(神経細胞間で情報伝達する使者)を回収して、その濃度を測定しました。
その結果、3週間自由に走らせたラットは、脳内のドーパミン濃度が上昇することがわかりました。
ドーパミンは動機づけや認知機能に関連することが知られています。
さらに一連の追加実験により、運動による抗うつ作用にドーパミンが関与していることを確認しました。
博士号取得後、動物ではなく人間を対象に、運動が脳機能に与える影響について研究してきました。
「ふだん、どれぐらい運動やスポーツをしていますか?」のような質問で集団調査を行ったり、研究参加者を集めて実験室で自転車をこいだり、階段を上ってもらったりして、さまざまな運動の効果を調べています。
また、うつ病患者さんを対象とした運動療法の開発にも携わってきました。
▼連載の内容
今回の連載では、こうした研究を通じてわかった、運動が脳に与えるすばらしい効果についてご紹介していきたいと思います。
よろしくお願いします。
筆者プロフィール:
陳冲(チン・チョン)
山口大学大学院医学系研究科 高次脳機能病態学講座助教
医学部に進学後、心理学に興味を持つようになり、精神科を選ぶ。
大学院では、脳神経科学に関心を抱き、運動の抗うつ効果における神経伝達物質の関与を調べた。
以来運動と脳神経科学の研究に専念し、現在うつ病に有効な運動療法の開発に関わっている。
著書に「頭を良くしたければ体を鍛えなさい:脳がよろこぶ運動のすすめ」(望月泰博と共著、中央公論新社、2020)など。